鼎談 Part 3「真にインターナショナルな所有権のあり方」(チョムスキー×ぺティファー×バルファキス)

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93歳の知識人ノーム・チョムスキーと、グリーンニューディール研究の世界的第一人者ロバート・ポーリンが、気候危機解決の道を語った『気候危機とグローバル・グリーンニューディール』。Fridays For Future Japanによる日本語版まえがき、そして飯田哲也・井上純一・宮台真司各氏による力強い推薦の言葉に後押しされつつ、ついに予約受付が始まった。本の完成を記念し、当ホームページでは12月をとおして特別コンテンツを無料公開していく。その第二弾として、今回はギリシャ国会議員のヤニス・バルファキスとイギリス経済学者のアン・ぺティファーを交えて2021年11月に行われた鼎談を4回にわたって掲載していく。


Part 3: 真にインターナショナルな所有権のあり方

バルファキス なるほど。ノーム、君はどう思うかな。(特にヨーロッパや北アメリカにおいて)フェイスブックや電力供給網から地元のカフェまで、所有権は誰の手にあるべきだろうか。

チョムスキー そもそも、人々の活動の原点はそういう問題意識にあるよね。まず言っておくと、私は国有化がものごとを大幅に改善するとは思っていない。もちろん、世界各地の労働者に団結を呼びかけることは重要であり、(定義上地域的ではない)国際コモンズを奪還するための団結には意義がある。多くの労働組合が「国際」「インターナショナル」という言葉を冠しているが、この言葉をかつてのような形で実践の場でも体現していくことが大切だ。人々が自分の人生を取り戻し、自ら決定を行えるようになるためには、国際的に連帯して運動を形成していく必要がある。

 よって、公益事業の公有化にも賛成だ。理に適った提案だと思う。しかし、ここで重要な問題が浮上する。そもそも「公衆」とは誰のことを指す言葉であり、公衆が何かを所有するとはどういうことかという問題だ。ここで私たちは資本主義に根ざす根本的な悪へと考察を進める必要がある。すなわち、人生の大半を主人に従属させるべきだという考えだ。これは「就職」と呼ばれている。就職とは、スターリンですら夢想だにしなかったような支配力をもつ主人、あなたに対して責任を全くとらなくてよい主人に、自分の人生の大半を従属させることを指す。トイレ休憩は午後3時から5分間だけと言ったり、職場での服装を決めたり、現場での移動の仕方を厳密に定めたり、私生活でやっていいことと悪いことを決める―スターリンさえもそのような支配力は持っていなかった。

 古代から数千年もの間、以上のような支配は人権と人間の尊厳に対する冒涜であるという理解がされていた。ただし、奴隷は例外だ。奴隷に対してはこのような扱いが許されていたが、自由な人、厳密には自由な男性に対してはこれが禁止されていた。自由な男性はこのような侮辱を受けるべきではないとされていたわけだ。その後、これは自由な男性だけでなく、自由な人たち一般へと拡大された。「労働は奴隷に任せておけばよい」という態度も、奴隷制度の廃止へと進歩した。一般の人々は各々の人生や職場を自分の手で管理するべきであり、主人への従属は拒否し、他の人たちと連携しつつ(in association with others)、あらゆるレベルで情報共有と一般参加を進め、協同福祉社会を樹立し、主人と従僕という概念そのものを廃絶しようとしていた。一般の人々の監視と管理が行き届いた状態で代表者を選出できる場合は、その代表者に権力を与えても良いが、それ以外の権力(authority)は認められなかった。私たちが必要としている社会体制変革もこのようなものだ。

 以上のような変革は国際規模で実践されるべきだ。なぜなら、私たちが直面している危機はどれも国境を越えるものだからだ。地球の温暖化にも、パンデミックにも、核戦争にも、国境は存在しない。力を合わせて課題の解決に取り組まない限り、みんな揃って破滅を迎えてしまう。解決策の第一歩目は、そもそも自分の人生を主人に従属させないといけないという思い込みからの解放だと思う。この思い込みは20世紀の産物であり、大々的な運動や闘争によって人々の心に刷り込まれ続けてきた。まずはそこから解放される必要がある。そうすれば、体制は自ずと崩壊するはずだ。

 これを実現するための活動はあらゆるレベルで展開できるだろう。そこにはアンが先ほど語っていたようなレベルも含まれる。また、いわゆる「評判リスク」を高めて、不当に資本を所有している者たちに対して資本を公共の善のために使うよう強制させることも然りだ。同時に、今すぐに実行できるような対策も実行し、人類の存続の可能性を残すことも大切だ。希望を絶やさず、以上のような展望を机上の空論にさせないためには、数十年以内にこうした行動を成就させていく必要がある。

ぺティファー ノームの考察に付言させてほしい。ここでイギリスの労働組合総評議会(TUC)上席経済顧問のジェフ・タイリーから引用したい。タイリーによると、今の私たちの社会体制は、財産のグローバリゼーションによって1%の人々の懐を肥やすようなインターナショナリズムとなっている。この分析は正しいと思う。ノームが指摘したように、今必要とされているのは労働者によるインターナショナリズム、すなわち99%の人々によるインターナショナリズムだ。主人たちの利益、すなわち1%の人々の利益を優先するような制度ではなく、労働者に奉仕するようなインターナショナリズムへとこれを変革していかなければならない。

バルファキス 僕は楽観主義者ではないけど、ここで柄にもなく楽観主義的なことを述べてみようか。君たちの話を聞いていてふと思ったんだけど、労働者によるインターナショナリズムには先例がある。しかもこれはつい最近見られた先例だ。黎明期のインターネットやLinuxを思い出してほしい。あれはオープンソース・ソフトウェア(OSS)に基づいているよね。OSSは今ではIT業界全体を席巻している。ジェフ・ベゾスでさえLinuxを使っている。Linuxは国際的で大規模で技術的に洗練されたソフトウェアに基づいている。ソフトウェアの開発者たちは上司がいない環境で働いており、商品や知的労働力を売って利益を最大化しようなどとは思っていない。この人たちは世界規模で協力をしている。協力を持続させ、心躍るようなすばらしいテクノ・インフラを作り上げている。

 要するに、協同組合という発想はけっこうなことだが、それが農村的なものに回収されてしまってはいけない。アボカドやジャガイモを地元で育てようとか、農村部の単純な暮らしに回帰しようとか、そういう方向へ考えが行ってしまっては駄目なわけだ。むしろ、協同組合とはすでに最先端のテクノロジー開発の現場で実践されているという点を押さえておこう。

 ところが、ベゾスのような人物は、この国際規模の無政府組合主義的(anarcho-syndicalist)なテクノロジーを利用し、私たちのデータを私物化し、多くの人々の労働の結晶であるこのテクノ・コモンズの上にベゾス帝国を築き上げている。問題はここにある。これを止めるためには、私たちの人格や人間性への所有権をもっている人たち(それはテクノロジーへの所有権と混同されてはいけない)に対抗し、手段を尽くして戦いを仕掛けていくしかない。この所有権を主張すること以外に、この人たちにできることは何もない。そもそも人間に対する所有権というものは、自由主義とも大きく矛盾する。それは資本主義的であるだけでなく、むしろ封建主義的であると思う。私の考えでは、これはもはや資本主義ではない。私はこれを「テクノ封建主義」と呼んでいる。コモンズはすでに実践されているが、それはまたもやヒルたちによって私物化されている。この事実の周知を徹底することが大切だ。資本主義のゲームを自分はもう続けないと決めた若い人たち(そしてそれほど若くない人たち)は、すでに新たなコモンズを作り上げている。それを人間の幸福に適う仕方で活用していくためには、ベゾスのような人物たちをしっかりと批判し、闘争を仕掛けていく必要があるわけだ。

ぺティファー そうだね。それを実現するためには、とにかく資本の移動を管理しないといけない。国内で新しい社会体制を樹立させようとしても、ベゾスのような人物や、アマゾン、グーグル、そしてマイクロソフトなどの企業が利益を自国の領土から海外の脱税天国(タックス・ヘイヴン)に移動しているうちは、変革に必要な税収が得られない。国境を越えて自在に資本を移動する能力こそ、この人たちのもっている大きな力だ。この力を私たちはいともあっさりと放置してしまっている。

バルファキス つまり、資本規制(capital controls)が必要だということかな。

ぺティファー 私は「規制」(control)という言葉が苦手で、むしろ「資本の管理」(managing capital)という言葉の方を使いたい。

バルファキス 資本を管理するためには、資本規制が必要なようにも思えるけど。まあとにかく、これに加えて所有権の問題も大切だよね。

ぺティファー 所有権も資本を移動する力と深い関係がある。

バルファキス それはそうだ。両者は互いに関連しあっている。所有権と資本の管理を考え直そうという立場だね。ノーム、君はどう思う?

チョムスキー そもそも、所有権は不変の掟などではなく、世界貿易機関(WTO)のウルグアイ・ラウンドで資本家集団によって導入された。このときWTOは「自由貿易」という言葉の範囲におさまるような商業活動を全面的に否定し、未だかつてないような絶大な所有権を「知的所有権の貿易関連の側面に関する協定」(TRIPS)や特許という形で導入した。仮に産業革命時代にこのような所有権が存在していたら、イギリスはそもそも発展できなかっただろう。インドだけでなくアイルランドさえ含む国々から最先端の技術を拝借していたからだ。当然ながら、アメリカもこれでは発展できなかっただろう。イギリスがもっていたより優れた技術に依拠していたならば、アメリカは今でも毛皮や綿の輸出国であり続けたはずだ。

 こうした現実を尻目に、新たな所有権は新自由主義的なグローバリゼーション構想の一環として導入された。アンが指摘したように、外部との意見交換は一切行われなかった。国際的な資本家集団の独断だったわけだ。「強大な所有権を導入すれば、独占価格設定を長期的に行う機会を得られる。そうすれば、一般の人々から富を奪い続けることができるぞ」という調子だ。これには何の正当性もない。労働運動がかつてそうしたように、この制度もまたその気になればすぐに転覆させることができるだろう。

 そもそも、こうした所有権の導入をめぐっては熾烈な闘争が繰り広げられた。そのことを忘れてはならない。クリントンが北米貿易協定(NAFTA)を導入しようとしたとき、彼は事前にそれを労働運動側に伝えずに強行し、アメリカの法律に違反した。採択直前のギリギリのタイミングで通告をしたわけだ。理由はというと、労働運動側には北アメリカ諸国の統合についてNAFTAとは異なる計画があったからだ。その計画では、各国経済で賃金が上がり、経済成長が促進されるはずだった。所有者階級はこれが気に食わなかったらしい。政府もこの階級の所有物になっていたため、議会でNAFTAは強行採決され、一般の人々からの反対の声を無視して、低賃金・低成長版のNAFTAが押し通された。これがさらに国際規模へと拡張されたのがウルグアイ・ラウンドだ。

 以上は権力者による強権行為の実例だが、より優れた組織とより活発な社会運動、そして国際的な協調をもってしていれば、各国の労働運動は自分たちの利益になるような、今とは大きく異なる国際経済統合を実現できたはずだ。これはちょうど、19世紀の急進派の農民や労働者たちが協同福祉社会を実現できていたかもしれないという議論と重なる。それはアメリカにおいて今とは異なる画期的な民主主義社会を樹立し、人々がもはや1%の数分の一にも満たない支配者への従属を止めることを意味する。

 このような歴史の進展は何も自然の摂理などではなく、民間の個人が権力を行使した結果こうなっただけの話だ。こうなることは、例えばマーガレット・サッチャーが「社会などというものは存在しない」と言った頃から予測できた。この言葉は、サッチャーの無知を表すか、あるいはサッチャーが嘘つきであることを示している。思うに、サッチャーは無知などではない。強固な社会の存在を彼女はよく知っていた。最上流の階級における富裕層の社会だ。国際資本やビジネス会合、商工会議所や国際ビジネス・貿易団体などにおいて、統合は粛々と進められていた。こうした人たちは、自分たちの利益のために国際的な活動を実に綿密に展開している。

 つまり、富める者たち、すなわち国際資本の不当な所有者たちの間では富裕層社会が存在するが、一般の人々の間には社会など存在しないというわけだ。新自由主義を要約するとしたらこうなるだろう。すでにマルクスが描写した状況であり、サッチャーもおそらく無意識のうちにマルクスをパラフレーズしていた。マルクスは19世紀の独裁政権に対して、人々を袋一杯のジャガイモに、すなわち事実上の奴隷化を迫ってくる勢力に抗戦できない孤立した個人に変貌させようとしているとして批判をした。新自由主義とは基本的にこういうものであり、昔からある階級闘争の一形態だ。

 こうした権力を剥奪していくために、先ほど挙がった所有権も含め、あらゆる場面で闘争を続けていく必要がある。ウィンドウズの独占価格設定ができるというだけの理由でビル・ゲイツが億万長者になったり、各種所有権のおかげで大手医薬品企業が通常の10倍ほどの価格で医薬品を売ったりしてよい理由などどこにもない。あるいは、他の人たちの労働に依拠しつつ、いわば賃料のような使用料を徴収してアップル社が私腹を肥やしてよい理由も皆無だ。繰り返すが、これは自然の摂理などではない。富裕層や諸企業が自分たちの利益のために実施しているものだ。私たちはこれを全面的に打ち壊していく必要がある。

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原典:Visionary Realism: A Green Future Beyond Capitalism (DiEM 25, CC-BY)